主観ってどこまで信頼できるもなのだろうか。
今日の授業で好きな教授は、自分は主観しか取り扱わない、むしろ客観にはなれないって言ってた。
それは、自分を自分で見ることはできない、視覚的にも、物理的にも。
だから世の中で自分という存在が一番理解不能な存在であって、だからこそ客観的にはなれないそう。
個人的にも、主観のほうがオリジナリティがあって表層的な判断だけど、面白いなと。
例えば、フランスの哲学者のジャン・ボートリヤールっていう哲学者はワールドトレードセンターは自らその破壊を呼び求めたと言ってる。
その根拠というか、そこにいたる論述的なものは知らないけど、これって、科学的な根拠にもとづくものでもないし、政治:体制:経済:文化的な目に見える何かで説明されているものでもないと思う。
その人にしてみたら、その「何か」はあるんだろうけど、こういった言及は論争を呼び起こそう出し、そういうものは客観的ではなく、主観的になるわけで。
なんで例を持ち出しているかというと、卒論のモチーフがマンハッタンの都市というもので、この哲学者の言及をうまく使えないかと思っているから。
でもそこで主観ばかりの論法で論文を書くことはなんだか怖いし、というか、そもそも、こんなこと言っている時点で論文の書き方というか学術的思考の持ち主ではないことがばれてしまいそうだけど、そんなこんなで行き詰まり。
社会学だったり、哲学は主観なのか?客観なのか?
今まで事実、数字的なデータに基づく事象しか扱ったことがないから分からんのです。
ましてや、難解(自分にとっては)なテクストを自分なりに解釈して、組み替えて、自分の論を足して、例えばだけど、マンハッタンの街の行く末は自ら街を破壊させること、なんて結論に持っていけるわけがない。
ふん、どうしたものかね。
というか、そういう事象、あるいは結論を用いたいのって、そういった刺激的なテクストに憧れているだけなのかも知れない。
もしそうだとしたら、これこそ本末転倒なことはないですよね。
バベルの塔だったり、ポストモダニズム的考えだったり、そもそもポストモダンって何?って感じなんだけど。
あと2ヶ月もない。
どーしよ。
まず文献を読まないとね。
めんどくさいね。
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