Ⅱ母親のことだけど、こう客観的にひとりの人間として接するとなかなか変な人だと思うようになった。特に久しぶりに帰省するとそんなことを思う。そうそう前に危惧していた我が家のニューカマーである母親の母親。来るまでは家にひとり人間が増えるってものすごく違和感を感じるのだろうとか思っていたけどいざひとつ屋根の下で一緒に過ごしてみたら、何も感じない。というか祖母自体なんだか空気みたいな人だし、方言がかなりきつくて「@лゝЭ£#〇・・・」みたいにはなさるから、そもそも意思疎通が難しい。それってただ新しい人間に慣れたとかそういうものじゃなくて、自分自身がこの家から離れてしまったから今まで以上に目に見えない部分で意識的に持っていた今までの家族の姿だとか家みたいなもんに固執していたのがなくなってきたということなんだろうかとか思ったり。もちろん自分の家だけど、普段はひとりで暮らしてるし、帰省してもちょっとしか帰らないから、たぶん自分の欠けた部分に祖母が変わりに入ったのでしょう。もしかしたら祖母の方がよそ者が来ているとか思っているのかも知れないね。
Ⅲ毎回帰省するたびに地元が廃れてゆく感じがしてなんとも寂しい。この街を離れて4年しか経ってないけど、最近はよそ者の目で見てしまう。JRの沼ノ端駅で電車が停車したときに見えた平成元年くらいに建てられたであろう2階建ての色あせたアパート。そのカーテンがかかった窓の隙間からすこし部屋の中の様子が見れて、窓際には鏡月のボトルが置いてあった。外は雪が積もっていて空気も張り詰めていて、外に人なんて誰もいない。生気がまったく感じられない駅前を見ていて、この街は機能してるのかどうかって思ってしまう。そのアパートにだって人は生活しているだろうし、その人のすべてがつまっているはずなのに、鏡月だって飲まれているだろうに、けど空虚に感じてしまうし、駅前の今にもつぶれそうなレストランというか食堂の電光掲示板の誇張したフォントで書かれたコラーゲンたっぷりという文字の点滅とかもなんだかむなしさを誇張している飾りのような気がして余計に気が滅入ってしまった。でも最近新しくなった特急のすずらんの車両には沼ノ端としっかりと日本語と英語との二ヶ国語でのアナウンスがなされていて、この街もしっかりと認識されていて、近代的な技術とグローバルを意識した思考によって沼ノ端も形作られていて、それでもってその存在を確かめた。でもその廃れた街とその駅の到着を示すアナウンスがなんともギャップがあって、というかどうしてもnumanohataという英語のアナウンスと沼ノ端が一致しなくて困ってしまった。
要するに言いたいことは今実家に帰省しているということです。
爽やかにほのかな希望を見出しつつのエアーポケットに没入しているのです。
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